1
1945年8月6日、山口彊(つとむ)は嬉しそうに起き上がりました。
その日は広島での最後の日でした。
翌日には長崎の実家と事務所に帰る予定です。
広島の会社で3カ月間、船の設計をしていたのです。
2
赴任の最終日、バスで会社に向かいましたが、書類に押す印鑑を忘れたことに気がつきました。
彼は社宅に取りに戻り、また電車で会社に向かいました。
3
駅から会社まで歩いている時、爆撃機が飛んできて、白いパラシュートが2つ落ちてくるのが見えたそうです。
突然、ものすごい「火の玉」が来て、彼は気を失いました。
4
それは原爆でした。
アメリカの爆撃機エノラ・ゲイが広島の中心部近く、山口さんからわずか3キロのところに落としたのです。
その瞬間、彼は道路に倒れ込みました。
彼が意識を戻したとき、顔の左側と左腕に激痛が走りました。
5
空を見上げると、大きなきのこ雲が空高く舞い上がっているのが見えました。
一刻も早くその場から逃げなければと思いました。
野原にある大きな木にたどり着き、辺りを見回しました。
すると、何もかもが破壊されていのに気が付きました。
こんな光景は見たことがありませんでした。
6
一通り歩き回った後、彼は同僚に会うために会社へ向かうことにしました。
到着すると、多くの家屋が損壊していたが、生存者が出てきて、彼に腕を回してくれた。
7
避難所で一夜を過ごした山口さんは、長崎の若妻と赤ん坊のもとに戻らなければと思いました。
翌日、汽車で長崎に帰り、病院で火傷の治療を受けました。
8
8月9日、彼は長崎の事務所に戻りました。
彼の顔の左側と左腕には大きな包帯が巻かれています。
同僚たちは皆、呆然としていましたが、広島で何が起きたのか、ぜひとも聞きたいといいました。
「爆弾1発で広島は壊滅した」と話すと、上司は「そんなことはあり得ない」と言いました。
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突然、大きな閃光が部屋中に走りました。
山口さんは、生きて長崎に帰ってきましたが、そこでも同じような悲惨な目に遭いました。
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山口さんは、2度の原爆投下から生還したが、心身ともに苦しみました。
原爆の後遺症で妻と息子を失いました。
やがて、自分のつらい体験を人前で話すことが自分の運命であり、義務であると感じるようになりました。
彼は自身の体験について本を書きました。
被爆者についての映画にも出演しました。
90歳の時には、ニューヨークの国連でスピーチもしました。
「私は2度、原爆を経験した。3回目がないことを心から願っている」
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また、2009年にプラハで講演したバラク・オバマ米大統領(当時)に手紙を書き、「核兵器のない世界、平和のために努力する」と約束しました。
山口さんの手紙には、「プラハでのあなたの演説にとても感動しました。私も残りの人生をかけて、核兵器を放棄するよう世界に伝えます。」と書かれていました。
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山口さんは、かつて「未来に希望を感じるか」と問われたことがあります。
一呼吸置き、彼は「未来に希望を持っています。愛と人間を信じます 」といいました。
晩年、彼は「私は自分の務めを果たした」とも言いました。
山口さんは93歳で、長崎にて静かに息を引き取りました。
彼の希望は、私たちの中に残っています。
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